死産後に第二子を高齢出産
不妊症(不育症)治療・出産体験インタビュー
死産を経験したのちに第二子の高齢出産に至った事例
回答者プロフィール・治療歴
石井さん(仮名)
神奈川県川崎市 41歳 結婚 9年目 ※出産時
2014年 | |
自然妊娠・初期流産 | |
2015年 | |
11月 | 第一子男児出産 |
2017年 | |
10月 | 卒乳・第二子の妊活を意識的に開始 |
2018年 | |
12月 | 妊娠→化学流産 |
2019年 | |
千葉県にある鍼灸院に通い始める | |
2020年 | |
1月 | 妊娠(コロナ禍が始まる) |
4月 | Aクリニックにて、FMFコンバインドプラス検査。(9-13週:採血、11-13週:超音波)→陰性 |
7月 | 女児死産(30週、子宮内) |
8月 | 別の鍼灸院へ通う |
11月 | フリーの助産師さんにオンラインで話をきいてもらう |
2021年 | |
3月 | Bクリニックにて不育症検査→不育症である決定的な要素なし |
8月 | Cレディースクリニックにて、妊活および不妊治療を開始するべきかを相談 |
9月 | Dクリニックにて不妊治療開始 |
11月 | 採卵。4個中、2個が胚盤胞凍結。 直後にバセドウ病発症し不妊治療中断。 |
2022年 | |
3月 | 甲状腺数値が安定したため不妊治療を再開。 |
4月 | 転勤により転居。 知人Tさんの紹介にて当院に来院。 胚盤胞(4日目胚盤胞 3AA→5AA)を移植。 |
5月 | 妊娠。 遺伝カウンセリング、NIPT(新型出生前診断)検査→陰性。 |
12月 | 計画分娩の入院時、コロナ感染のため分娩延期 |
2023年 | |
1月 | 計画分娩で再入院→陣痛促進剤→経膣分娩(無痛)にて男児出産 |
インタビュー本文
インタビュー日時 2023年7月
◆…聞き手
初めての妊娠と流産、出産
さっそくですが、2014年にご結婚されてその年に妊娠をされたんですね。
早め(当時33歳)に妊娠したんですが、胎嚢は見えたものの、病院に行った翌日あたりから出血が始まって、その後心拍が確認できなくなりました。7週で初期の流産でした。その当時は落ち込んで、知識がなさすぎて「なんで私だけ?」みたいな感じはありました。
そうして半年でまた妊娠されていますね。
近所のレディースクリニックでタイミング法をしていて、妊娠中に出血もなくて最後まで順調にいきました。お腹が大きいながらも当時は都内まで1時間15分くらいかけて通勤していたんですけど全然問題なく。
この時はつわりはありましたか?
吐いたりはしましたけど体重も減ることなく比較的軽かったですね。16週くらいで落ち着いて、教科書通りのつわりといった感じでした。
一度流産してからの妊娠でしたが、妊娠中に不安にはなりませんでしたか?
前の妊娠では心拍を確認できなかったので、残念だったところをひとつ超えたということで、「もう大丈夫。あとは時期が来たら産むだけ」と不安なく過ごしていましたね。知識がなくて(頭の中が)お花畑みたいな感じでした。当時は残業をかなりする職場だったんですが、午後8時くらいまで仕事をして満員電車で帰るというのを普通にやっていました。
その時は会社に妊娠のことを伝えていたんですね。
一回流産をしていたので、20週に入ってから安定期で言いました。最初の妊娠のときは5週くらいで仲のいい同僚に言っていたんです。その同僚も私より半年前に妊娠していて、私も「妊娠した」と。そのあとすぐにダメになって、この時、こういうことはすぐに周りに言うべきでないということを学びました。
二人目の妊活開始、妊娠反応。
出産から2年後に妊活を始めたんですね。
タイミングを自分で考えていました。1年くらい経ってから「タイミングが違うのかな?」と思って、上の子と同じレディースクリニックに排卵のタイミングを診てもらいに行くことにしました。
それでまもなく妊娠。
5週あたりで妊婦健診の初診へ行っても胎嚢しかみえないだろうと思って6週後半くらいで行ったんです。一番最初の妊娠で心拍が確認できなかったけど、自分の身に2回も起きることはないという意識があって。
皆さん、同じことおっしゃいますよね。早く行き過ぎても不安が前倒しになるという。
そうしたらまさか胎嚢も見えていなくて。ただ陽性反応だけ。子宮外妊娠も疑わないといけないので、一週間後にまた行くことになったんです。そうして2日後くらいに出血が始まって、病院へ行ったら数値も下がっているから「子宮外妊娠ではなくて、育っていなかったんだろうね」と。
鍼灸院へ通い出す
それから半年くらいのうちに鍼灸を始めていらっしゃいますね。
生理が再開してから40日経っても来ない周期があったんです。レディースクリニックへ行ってホルモン剤をもらって生理を起こしました。このときはもう36,37歳になっていたのかな。卵子の老化ということもあるし、年齢のために妊娠しにくくなっているのかもしれないと思って、いろいろ体質改善とか何かにすがりたいという気持ちで鍼灸院を探したんです。高校生の時は運動部にいて腰痛の治療を受けたことがあって、受けた翌日に腰が軽くなって「鍼灸ってすごい」と思っていました。それに20代の時にもリフレッシュで鍼灸に行ったりしていて結構(鍼治療が)好きだったんですね。それで当時住んでいた千葉県にある鍼灸院に通うことにしました。
その鍼灸院は不妊治療を専門としていましたか?
不妊治療をすごく謳っていました。そこの先生に、私の体質は「汗っかきだけど内臓が冷えている」から朝一のお白湯を飲む習慣を勧められたんです。もともと便秘がちだったんですけど、飲んだら思いのほか良くなっている気がしたので続けました。
そのあと5ヶ月後に妊娠したんですね。
タイミングをとって結構スンナリ。ただその頃、コロナ禍がスタートしたくらいの時期で「世の中どうなっちゃんだろう」と不安でした。
FMFコンバインドプラス
2020年4月、Aクリニックで”FMFコンバインドプラス”(FMFコンバインドプラス:出生前診断の検査のひとつ。初期超音波検査と初期母体血清マーカー検査を組み合わせたもの)を受けられています。
もう高齢の方に入っていたのでNIPTを受けるかどうかで悩んだんです。ただNIPTを受けても3つくらいの障害しかわからないし、当時県内ではNIPTを受けられるところが2カ所くらいしか見つからず、しかも(自宅からは)結構遠くて。そこで調べてみたら”遺伝相談”をやっている都内のAクリニックを見つけたんです。
どうやらそこ(Aクリニック)の院長先生はNIPT実施施設としての認可を受けるべく産科学会と戦っていて、海外では簡単に受けられるNIPTを「妊婦さんの権利として日本でももっと簡単に受けられるようにするべき」と訴えていたみたいでした、当時は20万円くらい払えばNIPT検査してくれる無認可の施設はいくつかあったんですが、そこ(Aクリニック)は「規則の中でできる限りのことをする」という考えで、ものすごく鮮明にわかる最新の超音波の機械を使って初期の胎児スクリーニングをして、いろいろな数値をもとに総合的にお腹の赤ちゃん(胎児)を診断してもらいました。無認可のところで検査して陽性という結果が出たとしても、そこではカウンセリングを受けられないんですよね。だったらNIPTをやらなくてもいいので、できるかぎりしっかり診てくれて相談できるところがいいということでAクリニックを選びました。
Aクリニックはどんなところでしたか?
夫婦一緒じゃなくてもいいんですけど、2回通わなければいけなかったです。私は一人で行きました。カウンセリングを受けたら、遺伝の話や診断結果の可能性などを詳しく話してくれて、「もし陽性と出ても、あなたが決めたことは全力で応援します」という姿勢で安心でした。特に問題はないという診断を受けたんですけど。
通院していた病院には、FMFコンバインドプラスの検査を受けることを言いましたか?
特には言わなかったです。
検査についてご主人には相談はしましたか?
しました。主人はあんまり詳しくないというせいもあるんでしょうけど、私がしたいことはなんでも「したらいいんじゃない?」と言ってくれるタイプで、「陽性になったらどうしよう」という話もしてはいたんですけど、二人とも答えは出ないので。お互い高齢だから安心のためにも検査を受けたという感じでした。
死産
その3ヶ月後の2020年7月に死産をされたんですね。
不安に思っていたのはコロナ禍だったということくらいでした。心拍が止まった29週の段階では、もう職場にも妊娠のことを言っていました。
胎動は感じていましたか?
感じていました。有休を使って32週くらいで産休に入ろうと思っていたんです。自分の担当していたお客さんにも担当が代わることを伝えたりして次々と引き継ぎをしていて忙しくしていました。コロナでちょうど在宅勤務がスタートしたくらいで、上の子を保育園に送って、在宅で9時から仕事をスタートするという生活をしていました。あと2週間くらいで休みに入るというところだったんです。一番最初の妊娠じゃないし、ここまできたら産まれるという思いしかなく、忙しくて胎動をそんなに意識してあげられてはいなかったんですね。
ある日の夕方、ご飯を作っていて「あれ?今日胎動あったかな?」とふと思ったんです。ちょっと血の気が引く感じがして、ご飯をつくるのをやめて横になっていたんですけど、やっぱり胎動がなくて。そこから手が震えてきて・・・。夫に「病院に行くからすぐ帰ってきて」と連絡して、産院にはそれから1時間くらいで行ったら「心拍が確認できない」と。最初は頭にぜんぜん入ってこなくて。先生からの説明で「明日から処置が始まります」「わかりました」と、その時は逆に坦々と冷静に話をしていたと思います。
翌朝、職場にはそのことを伝えて引き継ぎの件も冷静に話していましたが、それが終わったら一気に”現実に引き戻される”というか”絶望”が・・・。
(胎動がなくなる)前の晩に夫とTVを見ていたとき、ぎっくり腰みたいな「ピキッ」という痛みが尾てい骨に走ったんです。少ししたら動けたのでその日はそのまま寝たんです。今になってみると、もしかしたらあれがあの子の最後だったのかもしれないなと。朝起きてバタバタしていて、その時も胎動を気にすればよかったんですけど。気がついたのが夕方だったんです。
そのあとに出産(死産)してみても、へその緒が首に絡まっていたというのもなかったです。胎盤の方だけ病理検査に出したんですが、血栓があったとか細くなっていたとかもなく(死産の)原因は不明でした。検査に出さなかった赤ちゃんの方にもしかしたら何かあったのかもしれないですけど、先生の話では、体重もしっかり増えて週数の大きさだったし、障害や奇形があったとは見た目からでもわからないということでした。
原因不明ということは多いらしいですね。
そうらしいですね。死産は陣痛促進剤を使って出産をするのですが、私はなかなか陣痛がつかなかったので死産するためにG大学病院に転院したんです。G大学病院の産科部長が女医さんだったんですけど、明るくてサバサバしたいい先生でした。その先生が「みんなにいうと慎重になりすぎちゃうから言わないけど、へその緒に少しでも圧迫があって時間が経っちゃうと赤ちゃんへ酸素が行き渡らなくなるということはある」という話をしてくれました。「へその緒一本でつながっているのだから。やっぱり何が起きてもおかしくない」「そういう中でも生まれてくるというのは奇跡」、そして「その子のそういう人生だったのかなー、つらいけどね」とも。
死産後の生活
それから日常の生活に戻っていく時は、どんな気持ちだったのでしょうか。
自分の中で色がないみたいで、見える世界が変わっちゃった、考え方も変わっちゃった感じでした。日中は独りになっちゃうので実家に戻ったんです。実家は隣の市で近かったので、夫も1ヶ月は私の実家で寝泊まりしました。夫と上の子が一緒に幼稚園に行って、それから会社に行く。幼稚園に迎えに行くのは”じいじ・ばあば”がやってくれました。私は一ヶ月くらい家に一日中いて「なんでだろう、なんでろう」と泣いてばかりの日々を過ごしていました。それでも上の子が幼稚園から帰ってくればできる限りニコニコしていました。
周りに言うのもつらかったですね。会社の引き継ぎは終わっていたので私がいなくなっても大丈夫だったんですけど、会社に「赤ちゃんの心臓が止まってしまった」「出産しなきゃいけないから今日から仕事にいけません」といったことを話したら、上司とかは「こっちは大丈夫だから、もう気にしないで」「出産が終わっても休んでください」「また連絡がとれるようになったら連絡してね」と言ってくれました。上司や人事にはそう言えたんですが、他の人には自分から言うのも「ちょっと・・・」だったので、職場全体にはそういうことがあったと話してもらって大丈夫だと伝えておきました。
上の子の幼稚園には夫から伝えてもらいました。ママ友たちにはLINEで「こんな重い話ごめんね」と自分で伝えました。みんないい人で「話してくれてありがとうね」という方もいました。「返信は要らないよ」と言っていたんですけど、返信をしないでおいてくれる人、それでも返信をしてくれる人と半々でした。みんな温かい言葉をかけてくれました。ただ、やっぱりお迎えに行くのはなかなか気が重たかったですね。
お兄ちゃん(上のお子さん)にはどう伝えましたか?
赤ちゃんの心臓が止まって病院に駆け込んだのが夜だったので子どもを家に置いておくわけにもいかず、もう寝る前だったんですけど車で一緒に連れて行ったんです。(死産の)診断を受けて私が泣きながら夫に「ダメだった」と言ったら、子どもがびっくりして起きて「ママどうしたの?」と一緒に泣くんですよ。「赤ちゃんはお空に帰っちゃったよ」と。私が泣いているためか(上の子も)ずっと泣いていました。次の日も「なんで赤ちゃんそうなっちゃったの?」「原因はわからないんだけど、生きていられなかったからお空に帰そうね」と。
(妹を)楽しみにしていたんでしょうね。
してましたね。だけど火葬する前に会わせるのは夫婦で話し合ってやめたんです。心拍が止まってから生まれるのに5日くらいかかってしまって(赤ちゃんの)あんまり状態が良くなかったので。大人だったら見て大丈夫かもしれないけど、皮膚の色も赤ちゃんのイメージとは変わっちゃっていたし。ただ彼には”会いたかった”という気持ちがあるのかもしれません。お骨は手放せなかったのでずっと家においてあるんですけど、そのお仏壇の場所にお菓子を置いてくれるので、たぶん良く思ってくれているんだろうと思います。
ちゃんと”お兄ちゃん”なんですね。
そう、お兄ちゃんなんですよ。ただ、少し困ったエピソードもありました。ある日迎えに行ったら、幼稚園の子に「赤ちゃんがダメだったの?」みたいな話をされたから、上の子に「幼稚園で話した?」と訊いたんです。そうしたら「話した」というので「”秘密”って言ったよね。”秘密”って言ったことは外で話しちゃいけないんだよ」と厳しく言い伝えたら、それから秘密を守るようになりました。子どもだったら自慢したいだろうと思うようなことでも「そんなこと言わなくていい」という感じの子になりました。
お兄ちゃんに救われたことも?
そうです、そうです。彼が帰ってくれば何もなかったようにニコニコ。上の子の情緒のこともあるし、落ち込んでばかりいられない時もあるし、本当に救われましたね。
カウンセリング・鍼灸院
それから別の鍼灸院に通い始めていらっしゃいます。
妊娠24週が過ぎてもう大丈夫だと思って以前の鍼灸院を卒業することにしたんですが、その時に鍼灸院の若い女性の先生から「同じように卒業されて28週で死産された方がいる」「あまりやめるのをおすすめしない」という話をされたんです。ただ「無理はしないでください。体調に変化があればまた通うなりしてください」とも。そうしたら言われたことがそのとおりになってしまって「やめたのがいけなかったのかも」と思いました。そんなことがあって死産のことも言えず通えなくなっちゃいました。その後もDMとか来ていたんですけど、もう・・・。お世話になっていたんですけど連絡をとれなくなってしまいました。
同じ年にフリーの助産師さんにオンラインで話を聞いてもらっていますね。
同じ経験をした方がブログを書いてくれていて、そういうのを読んで同じ経験をした人を探す日々を過ごしてました。その中で、死産流産の悲しみに寄り添ってくれる助産師さんがいるのを知り自分からコンタクトを取って、話を聞いてもらいました。それで、当時39歳だったので次の妊娠を結構早くと考えていることも相談しました。子どもを失いながらも「時間がない」「悲しんでばかりいるわけにはいかない」と。
不育症検査
それからBクリニックへ。
大学病院で死産した後、そこで不育症の検査を受けたほうがいいかを訊いてみたら「うちの病院では詳しくは調べられないけども」ということだったんですが、それでも検査してもらうことにしました。「血栓ができやすいかどうか」とかの検査だと思うんですけど、特に問題がなくて不育症のくくりではないだろうという結果でした。ただ不育症についてインターネットを見ていると(Bクリニックの)S先生の名前がよく出てきていて、いろいろと調べているうちに、不安はやはりなくしておきたいということでBクリニックに行くことにしました。
BクリニックでS大学病院での結果を見せたら、「これは(項目として)検査したうちには入らない」という話で。それで再検査してもらったところ、特に大きな原因となるものはなかったんですが、TPO抗体の値が20だったんです。それを陽性ととるかというと「それが原因とは思えない」ということだったんですが、他にもグレーな項目があって「何もしないで次の妊娠というのは心配」ということでバイアスピリンを勧められました。100錠くらいもらったかな。タイミングをとるところから飲んで、生理が来なかったら続けるけど、生理が来たら飲むのをやめるみたいな感じでした。使い果たすことはなかったです。
体外受精のすすめ
Bクリニックの5ヶ月後にCレディースクリニックへ行っていますね。
当時、死産経験者でもある産科医師のカウンセリングを受けられるという情報を見つけて、Cレディースクリニックへコンタクトをとりました。その時にはもう40歳になっていて不妊治療をするかというのも悩んでいたんです。妊婦の患者さんに会わなくて済むようにと、休みの日なのに日曜日に診療してくれて1時間くらい話を聞いてもらいました。先生は資料を出して「どうしても妊娠したいのだったら踏み切りましょう、おすすめします」と理論的に説明してくれました。「採卵で10コ卵がとれたら、普通だったら10ヶ月かかることが1回で済む」「時間がないので人工授精はとばして体外受精にいっていいと思う」と。それで私は「なるほど」と思ったんです。
それで沿線にある評判のいい不妊治療クリニックに行こうと思ったんですけど、「そこは自然周期派の病院だから」ということで、急ぐためにも中刺激・高刺激でやってくれるクリニックを勧めてくれました。それまでは病院選びをそういうふうに選ぶと考えたことがありませんでしたね。それで口コミも見て別のクリニックを選びました。
Dクリニックですね。
都内に評判のあるところはいろいろとあったんですけど、Dクリニックを選んだのは、通いやすい沿線にあったことと、その(Dクリニックの)W先生もお子さんを亡くされていて、そういう思いをもとに医師になっているということで共感できたし、それに小さなクリニックで体外受精を専門にしているので「話が早い」と思ったからでした。
体外受精・バセドウ病
Dクリニックに行って2ヶ月で採卵されていますね。
Dクリニックでは平均して卵は6個とれるということだったのですが、私は4個でした。そのうちの2個が胚盤胞にいって4日目の3AAと5日目の4AA。先生には「すごくいいよ」と言われたけど、なんだかよくわからなかったんです。(抱っこしているお子さんを見て)この子が4日目3AAの子です(笑)。
でもすぐにバセドウ病を発症して不妊治療を中断したんですよね。
そうそう。本来でしたら採卵前に発覚して不妊治療を始められなかったと思うのですが、(以前に不育症検査を受けた)Bクリニックでバセドウ病の検査はしていて、その時は陽性とは出ていなかったので、期間もそれほど空いてないしお金もかかることだからと、Dクリニックでは検査をしなかったんです。あとから「バセドウ病のまま採卵して大丈夫だったの?」と思ったんですけど、先生は「大丈夫」ということでした。
この時に 5 kgも痩せた。
そうなんです。ドリンクを持っている時にも手の震えがあって、すごい動悸で眠れずにソワソワしていて、夫に「とうとう精神的に来ちゃったかな」なんて話していたんです。急に痩せてきて最初は「最近ウォーキングをしているからかな」と思ってたんですけど、さすがに1ヶ月で 5 kgはおかしいと思って病院へ行ったら、バセドウ病とわかりました。精神的に参っていたわけではないとわかってスッキリしました。不妊治療の方は中断して落ち着いたら移植することになりました。4ヶ月後、バセドウ病は投薬で数値が安定しました。ちょうどその頃に転勤で引っ越しの話もでてきたんです。
SNSで知り合った友人が当院を紹介
それで引っ越しをされて当院にいらっしゃいました。
死産後にSNSでTさんと知り合うことになって、そのTさんが(鍼灸サロンvvBを)紹介してくれました。
どういった経緯だったのでしょうか?
(死産の経験のある)Tさんも私も note(note:文章や写真などの作品を配信できるウェブサービス)を書いていたんです。「いいね」みたいな機能(”スキ”)があって、Tさんがそれをしてくれていて、私もしていました。同じ名前で他のSNSもされていて、そこの経歴を見てみて「同い年かもしれない」と思って話をしてみて、それからネット上で仲良くさせてもらっていたんです。おそらく彼女は神奈川県に住んでいるだろうということはわかっていました。(転勤による)引っ越し先の話をしたら、彼女が転居先エリアに住んでいることがわかりました。最初はオンラインで会って、それから(引越し先の)物件を見に行くタイミングで実際に顔を合わせたんです。ご縁がつながりました。「こんなことあるんだねー」といった感じで、それで「鍼灸院も紹介できるからね」と。
妊娠、NIPT(新型出生前診断)
ちょうど当院にいらっしゃった2022年4月に移植して妊娠。それでNIPTを受けましたね。
(妊娠中)S大学病院の産科に通っていて、そこでNIPTを受けました。(FMFコンバインドプラスを受けた)Aクリニックと比べてみると、Aクリニックの方がおすすめですね。2022年10月くらいからAクリニックもNIPT認可施設となりました。ネットで見るとS大学病院よりも費用も安いんです。S大学病院は20万円くらいでAクリニックは16万くらい。それにカウンセリングのやり方も違って、Aクリニックでは詳しくて勉強にもなりました。
カウンセリングの体制はどうだったでしょうか。
Aクリニックは遺伝カウンセラーの資格を持った方と一対一で、エコーと総合して結果を言ってくれるのは産科医でした。S大学病院の方は、遺伝カウンセラーの方は2名体制。話を聞いてくれたんですけど、胎児に起こりうることの説明というよりは、今までの経歴と家族歴の確認という感じでした。NIPTの結果は遺伝診療部の医師から話があって、その時カウンセラーの方も同席されていて、その方に以前Aクリニックに行ったことを言ったら「あそこはすごいですよね」みたいな反応でした。カウンセラーでもそう思うのかと。専門的にやっているところはやっぱり違いますよね。
妊娠中
今度の妊娠は全部順調だったように見えますが。
そうだったんですが、子供を失う経験をしてるので、無事に出産して産声を聞くまではずっと不安で不安で仕方なくて。あとは湿疹。(死産した)娘の時も湿疹が出ていて、(抱っこしている)この子の時は30週くらいになったら胸の周り、そしてお腹あたりもひどく出てきて、出産前はかゆくて仕方なかったです。あと便秘も酷かったですね。
この時の妊娠のことは、周囲の人たちにどうやって伝えたんでしょうか。
ぜんぜん。死産してから友人に会いたくなくなっちゃって、仕事もオンラインでやっていたし、あまり友人に会わなくなっちゃったんですね。(自分の)親は私が妊娠したのは知っていましたけど、夫の親には20週になってから言いました。遠方で離れているので心配かけたくないというのもありました。
会社には言いましたか?
言わなかったんです。フルタイム勤務からパートになってから育休がなくて。もしも妊娠のことを言ったら「休んでからまた来なよ」というふうに言ってくれたとは思いますけど、夫には仕事を一回やめたいと言ったんです。夫も「やめたいならやめればいい」と言ってくれたので、会社には「仕事を続けられる気力がなくなった」ということで(妊娠判定の4ヶ月後の)9月いっぱいでやめました。
メッセージ
不妊治療、不育治療をしている方にメッセージはありますか?
私はもっと早く体外受精をやってもよかったと思っています。すごい処置をするという敷居が高いイメージがあったんです。スムーズに進んだからという結果論かもしれないですけど、37歳くらいで一回くらいやっておいてもよかったかなと。あの頃もうちょっと早く決意をしていたら、もうちょっと知識があったならば、と思いますね。
「話すことは放すこと」という言葉に出会ったことがあります。死産後、グリーフ(悲嘆)の最中にいるとなかなか力も出ないし、「話をしても意味なんてあるのか?」と思っちゃうんです。悲しすぎて「話をしても事実は変わらない」と私自身そう思っていました。だけどやっぱり話すことで心が軽くなる部分もありますよね。信頼できる人と信頼できる場所で話すことで、次の「こうしてみよう」という発見ができたり、治療を応援してもらえたり。自分自身にはそういう場所があってよかったなと思います。
自分でよかったと思うことは、(自分が)比較的人に頼ることができるタイプだったことですね。「助けて」とか、ずうずうしくもできるタイプだったんで(笑)。サポートしてくれる人を意識的に作りました。オンラインでつながっている助産師さんも、鍼灸院さんも転院先の先生もそうですし、Tさんも。味方をしてくれて盛り上げてくれる人を自分を応援してくれる人たち、勝手に”チーム石井”じゃないですけど(笑)。
(笑)それ、いいですよ。
頼るのが苦手な人には難しいことだと思うんですけど、独りでやっていくのはやっぱり苦しいですよね。頼れる場所があれば、生活にも変化とか、気持ちがちょっと変わる余裕が出ますし、それがいい方向につながるといいです。
ご主人も”チーム石井”?
そうですね。夫は言葉は多くないんですけど、私が思うことを否定せずに「いいんじゃない」と肯定してくれていました。「もうちょっと一緒に勉強をしてよ」と思う部分はあるといえばあるんですけど(笑)。彼は外で「奥さん大変なんだから支えてあげなよ」とか言われていたみたいですけど、「俺だって子を亡くした当事者なんだけど」というようなことを言っていました。これは旦那さんが傷つく言葉なんだなと思います。家の中では多くは語らなかったけど、もしかしたら車の中で泣いていたんだろうなぁと思います。男の人には(相談できる)そういう場所はないんだろうなと。
貴重なお話、それにたいへん長いお時間ありがとうございました!
聞き手の感想
「話すことは放すこと」。自分を応援してくれる環境を意識的に作って、次の妊娠に向けて前向きに進めた石井さん。今回のインタビューは「私の経験談を読んで誰かの励みになるならば」と快く引き受けてくださいました。最後、ご主人の「俺だって子を亡くした当事者なんだけど」という言葉が、鋭く重い印象を胸に残しました。想像力をつかって話を聞く大切さをあらためて学びました。